生い立ち
- 幼年期
1940年 10月9日 18時30分、第二次世界大戦 のナチス・ドイツ による空襲下に置かれたリヴァプール で誕生。出生時、父親のアルフレッドは商船 の乗組員として航海中で不在、母親のジュリアも他の男性と同棲していたため、母親の姉・メアリー(ミミ伯母)夫婦のもとで育てられた。ミドルネームのウィンストンは、当時のイギリス の首相のウィンストン•チャーチルから。
1946年 、父親のアルフレッドが帰国し、父親に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、母親のジュリアがジョンを連れ戻すが、母親と暮らすことはできず、再び、ミミ夫婦のもとで育った。父親も行方不明になった。
ビートルズ・デビューまで
- 少年時代
実の両親と共に育つことがなかったことから、少年時代は反抗的でケンカ騒ぎを起こすことも少なくなかったという。1952年 9月 にグラマー・スクール のクオリー・バンク校に入学した。1955年 に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。
1956年 のある日、エルヴィス・プレスリー の「ハートブレイク・ホテル 」を聴き、ロックンロール の洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。ジュリアはジョンにバンジョー のコードをいくつか教え、音楽へと関心を向けさせた。
1957年 、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール 」を作曲(この曲は1962年 にデッカ のオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1 」で公式に発表された)。当時からギター・ヴォーカルを担当していたが、前述の通り実際に教わったのはバンジョーのコードだったため弦を4本しか使っていなかったという。
- ポールとの出会い
3月 、クオリー・バンク校で、ビートルズの前身であるスキッフル バンド「クオリーメン 」を結成した。 7月6日 、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人、アイヴァン・ボーンの紹介によりポール・マッカートニー と出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。エルヴィス・プレスリー 、チャック・ベリー 、バディ・ホリー と言ったアメリカ のロックンロール に夢中になった。
- ジョージ・ハリスンとの出会い
1958年 2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスン と出会う。間もなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。
- 母の死
1958年7月15日 、母・ジュリアは非番の警察官が運転する車にはねられ死去。この母・ジュリアの死は、ジョンのその後の人生に大きな影響を与え、また既に(1956年 14歳の時)母親を乳癌 で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。
1958年9月 、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art) に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエル と出会った。 1959年 1月 、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。
- ハンブルク
この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルク のクラブなどでも演奏活動を始めている。ジョンはハンブルクの楽器店で1台目のリック325 を購入した。
1960年 1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフ がメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と変わっていた。8月 「ザ・ビートルズ」になりピート・ベスト が加入した。
1961年 4月 ハンブルクでスチュアートは画家に専念するため脱退。ジョンはすぐにポールを説得してベーシストにする。ポールはヘフナー500/1を演奏することになる。また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマン の加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るがまもなく脳腫瘍 で死去した。6月 ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダン のバック・バンドとして「マイ・ボニー 」をレコーディングした。
ブライアン・エプスタインとの出会い
1961年 12月 ジョン達は「マイ・ボニー 」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者ブライアン・エプスタイン とマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。 1962年 1月1日 にデッカ・レコード のオーディションを受けるも不合格となった。 6月 にパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月にピートを解雇し、以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマー、リンゴ・スター が加入した。 10月5日 「ザ・ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。
最初の結婚
1962年8月23日、シンシア・パウエルが妊娠したのを切っ掛けに彼女と結婚した。
シンシアとの間の長男・ジュリアン・レノン は1963年 4月8日 に誕生した。しかし、両親と生活したことのないジョンは、ジュリアンにどう接すればいいのか分からずに戸惑っていた「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか? やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。
キリスト発言
1966年 3月4日 、ロンドン ・イヴニング・スタンダード 紙のモーリーン・クリーヴとのインタヴュー でジョンは次のような発言を行なった。
- 「キリスト教 は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエス よりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子 達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」
この発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルト (キリスト教根本主義 が信奉される南部や中西部)の保守 的宗教 団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ 局はビートルズの曲の放送 を禁止し、彼らのレコード やグッズが燃やされた。スペイン 及びヴァチカン はジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴ で以下のように釈明会見を行い、ヴァチカンも彼の謝罪を受け入れた。
- 「僕がもし、 “テレビ がイエスより人気がある” と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神 に反対しないし、反キリスト でなければ反教会 でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」
ジョンとヨーコ
1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『How I Won The War』(日本では1993年 にビデオ で初めて発表。邦題: 『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリー で彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅 や空 の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。
二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 』の録音 期間より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年 2~4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚 申請を行い、11月8日に離婚が成立した。
ベッド・イン風景、(奥左)ジョン・レノン、(奥右)オノ・ヨーコ 、(中央)ティモシー・リアリー 。「平和を我等に 」のレコーディング中(1969年)
1969年 3月にジョンとヨーコはジブラルタル で挙式し、新婚旅行 で訪れたアムステルダム とモントリオール で「ベッド・イン 」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。
結婚後間もなくジョンはミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチル にちなんで名付けられた)からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記された。
彼らは多くのメディア から奇妙なカップル として取り上げられる一方、反戦 運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンド としての活動やヴェトナム戦争 に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスがヴェトナム戦争の支持を表明したことで、大英帝国勲章を返却した。「バギズム 」や「ドングリ・イヴェント」 (ともに1969年) などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や ‘War Is Over (If You Want it)’(1971年)の街頭広告を行った。
ジョンの本格的なソロ活動前に二人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ 』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ 』、『ウェディング・アルバム 』の3枚のアルバムを発表した。またジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心 』(1970年)、『フライ 』(1971年)、『無限大の宇宙 』(1972年)、『空間の感触 』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。
二人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ 』(1972年)、『ダブル・ファンタジー 』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー 』(1984年)が発表された。
☆John Lennonの生涯・・・それは奇跡の軌跡☆
☆山あり、谷あり☆
☆John Lennonは、今も天国から平和を願っているのだろう☆